もんきーですよ。
速読について様々な講座があるようだが、速読するよりも何を読むかが重要だと思う。
速読のスピードがすごいからといって、どうなんだろうと思う。
1日1冊はその本が面白ければ十分可能だ。山崎豊子の「ぼんち」はなかなか進まなかった。昭和のはじめのころの船場のぼんぼんの物語だ。山崎豊子の取材力は半端じゃない。
あとがきにも、こんなに古き時代の船場言葉がリアリティを持って語られている本は類を見ないと書かれていた。味わいのある言葉が、四角い紙面の中で揺蕩っていた。
それにしても山崎文学に描かれる世界のドロドロが、あまり好きではないが怖いもの見たさが更なる先を読み進める。裏切、罵倒、誘惑、陰り、陰鬱などというイメージが所狭しと表現される。ある意味、現実の世界がそこにはあり、山崎文学を好きな人はそのドロドロの中に思考を埋める。
伊藤計劃の「ハーモニー」「虐殺器官」は一気に読み込んだが、伊藤氏が病床の中において書いていたという事実を知りながらも、流してしまったのかもしれない。
「ハーモニー」の中でのクライマックスを飾るミァハのダンスは、哀しくも美しかった。たわんだ、ジャングルジムもありありと目蓋に写った。虐殺された村の人々の遺体の肉片の描写が凄まじかった。
梶井基次郎の「櫻の樹の下には」の冒頭部分が一番好きだ。何といっても、「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」という桜と死との対比は桜の艶やかな美しさを強調している。そこがなんとも言えない。
本を読むとは何か?という哲学的な疑問にもぶつかる。その人が読んだと思えば読んだのか。その、主観的な中にしか本を読むという言葉は存在しないのかもしれない。客観的に読むということを定義するならば、いつになっても読むということは決してできることではないのだから。
著者の人生にどんなに肉薄しようとも。
もんきーらしくない言葉で語ってみました。
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